意識を開くということについて
★ 重複しますが、意識とは、私感覚のことで、精神だけでなく魂にも肉体にも独自の意識があります。
魂の意識とはハイアーセルフのことですが、これは高次精神(深い愛や意志といった高度な感情や、知恵や悟性といった物事の道理や本質を見極める知的作用)と共有しています。
ハイアーセルフとは、個人的な欲望のない高い自己であり、また、転生を繰り返しながら魂の波長に相応しい経験のみを記録、汲み取られた意識で、Futuer・selfでもあります。(※詳しい記載は応用編でします)
★ 精神(マインド)は多重層で、成長・発達の段階で徐々に深化させ多様化させていきます。
意識を開くとは、私感覚を広げ深めていくということで、やがては、全てはつながっている、ひとつである、という理解と感じ方へと向かうのです。
★ 乳児では、魂は別にして身体と精神(マインド)はまだ未分化です。例えば、乳児にとって空腹とは、即、自己のアイデンティティの危機です。
★ 発達・成長していくにしたがって、「身体対自己」という限られた囚われから、身体を含む「自己対環境」となり、世間・家族・仲間・所属している場を通して、自己を形成していきます。(意識の多様化が起こります。)
「○○対○○」とは、その発達・成長の段階での自己が、最も関心・関係している、あるいは依存している世界観のことです。
(無自覚なことも多い)
青少年期以降の人が抱える、あらゆる種類の悩みや問題の多くは、「自己対環境」の段階と深く結びついています。
★ 成人して、さらに精神を成長させると(意識を開いていくと)、一部の人は自己実現(自分のあらゆる性質を使いこなし精神を統合させ、自分らしく生きることに成功した状態。或いは、自分らしさを創造した状態)を果たします。
★ また一部の人は、より本質的になるために、意識をさらに深化させ、いっそう自己の内部に沈殿し、道理や根源といった物事の起源に触れようとします。
自己実現や意識の深化を通して、自分(人間とは)は何者であるのか?どこから来てどこへ向かおうとしているのか?人智を超えた存在とは?生命とは?宇宙の意志とは?本質的な愛とは・・・等の、太古より人類が投げかけてきた、深遠なる問いに答えを見出そうとします。(繰り返される哲学的問いかけ)
★ そして、(ほんの一握りの人になりますが)十分な思索を繰り返したにも拘らずこれに行き詰ったり、〈例えば、禅問答は思考の限界に導くためのメソッド〉それとは逆に感じられる、祈り(すがるのではなく、献身)・瞑想・啓示・神秘体験等によって高度な霊的体験が起こったりすると、ついに思考の限界が訪れます。
ちなみに思考の限界とは、考えられなくなる、正常な判断を失うといったことではありません。思考している自分自身と、思考そのものの限界を悟るということです。(思考〈自我〉を超えた状態を経験し認知するということ)
そうなると、流れにゆだねる、天(高き世界)に明け渡すといった、人知を超えた存在や世界観にその身を預け、「自分は生かされているのだから・・・」といった、意識された気ままさと意識されたあるがままに到達します。(魂とつながる、覚醒する、次元上昇する、ハイアーセルフとして生きる・・・etc)
★ 意識を開くとは、依存から自立への旅立ちということです。
生まれてすぐは、身体とぴったり重なっていたアイディンティティを、分化させて、環境(世間と人が作り出す全て)へと。
そして、それによって自我を確立し、自我中心の意識からより大きなもの(魂や大いなる源)へと、意識の関心や世界観を多様化させ、深化させるのです。
つまり、意識を開くとは、より統合された私感覚(アイデンティティ)を確立していくことであり、無自覚でいる部分を自覚していくということ。
人間存在として、闇から光へと自立させていく、そのプロセスなのです。
★ 別の角度から言いますと、自己意識が占めていた割合と視点を“個別性(特定の出来事や状況)から全体性(自己の全世界観と宇宙的環境との関わり)”へと。
形や結果(評価)を気にする心から、そのプロセスや中身に目を向けることでもあります。
“自分が何者かに支配されている”“起こる出来事は、自分の想いや考え(または、想念・思念)とは無関係である、“他者によって左右される”という感覚を減らし、そういった考えを変容させ、自分が自分の運命の創造者だと認知していくことなのです。
また、意識を開くとは、霊的成長をしていくということです。
精神(マインド)に、魂の愛と英知を移し入れ(変え)、それによって魂とのつながりを確立し、魂・精神・肉体という3者のバランスを取ること。それが、ハイアーセルフとして生きること、悟るということなのです。
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